旧ブログの中の、リニューアルするほどでもない雑多な記事をまとめて保管する場所。
消すのも寂しいので一応残しておく。
旧ブログサイト
Audible
最近よく利用しているサービス、AmazonのAudible。
本の朗読を配信していて、通勤中に聞くのにもってこいだ。
以前は音楽を聴いていたが、なんとなく聞いているだけで何も残らない場合が多いので、何かないものかと探していたら、このサービスに出会った。
ジャンルは幅広く、一般的な小説やビジネス書もあれば、語学学習やラノベもある。
「転生したらスライムだった件」や「物語シリーズ」など、人気ラノベを有名声優が朗読している作品も増えてきているので、声優好きにもお勧め。
アニメとの違いは、主に一人の声優だけで朗読する点。
多くの声優が喋るアニメと違って、一人の朗読をじっくり聞けるのは、オーディオブックならでは。
映像がない分、声だけでじっくりと楽しめる。
声優の「声」が好きな人にはたまらないだろう。
サービス内容は、月額1500円で1タイトル無料で買えるコインが月に1枚手に入る。
一度購入したタイトルでも条件が合えば返品できるので、実際聞いてみたらイマイチだった、という場合は返品すればコインは帰ってくる。
近年、プランが変更された。詳細は公式を確認して欲しい。
定期的に聞いてみた作品を紹介したい。
頭が良い人の話し方
頭が良い人の話し方を真似したいなぁと思っている。
頭が良い人になるのはなかなか難しいので、せめて話し方ぐらい真似したい。
では、具体的に頭が良い人の話し方とは?
それは「誰にでもわかる(聞き手のレベルに合わせた)話し方が出来る」という事だと思う。
難しい内容を誰にでもわかるように話すには、深い知識と語彙力、そして聞き手を思いやる気持ちが必要。池上彰さんなどが良い例だ。難しいニュースを子供でも分かるように説明してくれる。
言葉というものは、相手に理解されて初めて意味を持つ。相手に伝わらない言葉はただの自己満足であり、虚空に消えていくだけである。
会社社長のインタビューなどを見ると、専門用語や横文字を多用する方が一定数居る。これは、頭が良い人の話し方ではなく「他人に頭が良いと思われたい人」の話し方だ。聞き手に伝えようという気持ちはなく、ただ自分の知識をひけらかし自分が相手より優位だとアピールしたいだけの言葉。
頭が良い人の話し方を真似ようとして陥りやすい間違った話し方の一つなので、間違えないようにしたい。特に、こういう話し方をするのは結構気持ちのいい事なので、癖になってしまう人も居る。自分もたまにしてしまう。反省。
常に聞き手を思いやる気持ちを忘れないようにしたいものだ。
主語の大きさ
自分の意見を言うとき、ついつい主語が大きくなってしまうことは誰にでもあることだ。
「〇〇歳としてはこう思う」「〇〇県民としてはこう思う」などからスタートし「男としては」「日本人としては」など、主語は際限なく大きくなってゆく。
当然のことではあるが、自分の意見が所属しているカテゴリを代表する意見かのように話すことは間違いだ。
日本人が皆同じ意見であることはあり得ないし、男性であっても意見はバラバラだ。
そもそも、同じ場所に住み・同じ学校に通い・同じ年齢で・同じ性別であった学校のクラスメイトですら、意見はバラバラである。
意見は常に「私」という個人を主語としなければいけない。
人は何故主語を大きくするのか、それは責任を負いたくないからである。
また、自分の意見の影響力を高めたいからでもある。
「私」の意見とした場合、その意見が批判されるときは「私」という個人が対象となる。
しかし「男性」の意見とすれば批判の矛先は「男性」全体となるし「日本人」の意見なら「日本人」全体が批判され「私」個人が攻撃されるわけではない。
同様に、「私」一人の意見ではだれにも相手にされないかもしれないが「日本人」の意見だと言えば重要性が増すのである。
このように、主語を大きくすることは非常に便利な効果があるのだが、「私」という個人を薄め、無責任な発言をしてしまうことに繋がるので、気を付けて使うようにしたいものである。
ショートカット
皆様に好きな女性の髪型はありますか?
僕はショートカット、もしくはショートボブと呼ばれる髪型が好きだ。
別に強いこだわりがあるわけではないのだが、ショートのキャラに惹かれる事が多い。
しかし、このショートカットという髪型は、現実の女性だと相当な美人でないと似合わない気がする。広末涼子とか新垣結衣とか、そのくらいのレベルでないと。
アイドルグループなども、殆どの子がミディアム~ロングだ、たまにショートの子も居たりするが、似合っているからというよりは他のメンバーとの差別化の為にショートにしているのではないか。たぶんロングのほうが似合う。
そもそもロングが似合わなくて、ショートが似合うということは無いのではないか。逆にショートが似合う人はロングでも似合うだろう。
因みにこれが男性になると逆で、長髪はイケメンにしか似合わない。
だが、アニメや二次元ではその限りではない。魅力的なショートのキャラは沢山いる。
ショートカットは二次元にのみ許された髪型なのかもしれない。
ペンネーム変更
10年以上ブログをやって来て今さらだが、ペンネームを変更した。
元々ya-huという名前は適当につけた名前で特に思い入れも無かったのだが、いいのが思いつかないのでそのままにしていた。
新しい名前は「ナビ翁(ナビオ)」
ナビはナビゲーションのナビ、カーナビなどのイメージが強いが、ナビゲーションという英語には航海術や航法といった意味があるらしい。ネオアトラスメインのサイトにあっていると思う。
翁はそのまま、年老いた男性という意味。ナビ男でも良かったのだが、その名前のお店が既にあったので翁にした。
そして、こちらが本命なのだがナビ翁→ナビオ→navio
「navio」はポルトガル語で船を意味する。ネオアトラスの主人公はポルトガルの貿易商なので、どうにかポルトガル語に因んだ名前にしたかった。
字面はちょっと間抜けだが意味は詰まっている。
幽霊って居ると思う?
「幽霊って本当に居ると思う?」
こんな話をした経験は誰にでもあるはず。
あなたはどう答えるだろうか。
幽霊を信じない人は「だって見たことがないから」という理由を答える人が多いと思う。
しかし「存在」というものを確認するための感覚機能として目、つまり「視覚」を信頼してもよいのだろうか?
例えば、目の前にボールがあるとする。
それを手で触って確認した時に、ボールの有無を間違える人はまず居ない。
しかし、われわれ人間の目は、そこに存在しないものを存在するかのように認識してしまう事もある。鏡のトリックがよい例だろう。
このように「視覚」の信頼度は、存在を確認するという点においてはかなり低い。それなのに私たちは視覚による情報に絶対的な信頼を置いているのである(視覚から得られる情報量を考えれば仕方のないことではあるが)
なのでこう答えてはどうだろう「だって幽霊を触ったことがないから」
ソフトハウスキャラの思い出
ソフトハウスキャラ解散。一部のエロゲーマーにとっては悲しいニュースだ。
このブログでもたまーに話題には出していた。
ソフトハウスキャラは、エロゲーメーカーとしては珍しく、ゲーム部分が面白いのが特徴だった。
プレイしたゲームは
「巣作りドラゴン」「グリンスヴァール」「王賊」
「ウィザーズクライマー」「DAISOUNAN」「忍流」
「バニーブラック」「雪鬼屋温泉記」「領地貴族」こんなところ。
最近は同人ソフトもかなり多く、フルプライスでのエロゲーは厳しいと思われる。
メインになりつつあるブラウザのエロゲーも競争率が激しく、一年以内にサービス終了するゲームも珍しくはない。
エロゲー業界の明日はどうなる。
AIは小説家になれるか?
AIの進歩は目覚しい。
この先数十年で、世界を劇的に変化させる可能性があるとすれば、間違いなくAIによるものだろう。
一昔前までは、作曲や執筆などの創作活動は、AIには無理だというのが一般的な考えだった。
だが近年ではAIによる作曲も取り入れられているし、小説に関しても実験的な試みが行われている。
とはいえ、全くの0から作っているわけではなく、過去の作品のデータを学習したり、様々な文章から切り貼りしているものが多い。
しかし、そもそも、現代の人間は0から何かを生み出しているのだろうか?
作曲にしろ執筆にしろ、成長する過程で過去の作品に触れ、学び、模倣しながら自分のスタイルを確立していく。
結果自分だけの作品を生み出す人も居るが、模倣に留まっている人も多いのではないか。
AIのように過去の作品を切り貼りしただけで、自分の作品だと言っていないだろうか。
AIの進歩は喜ばしいことだが、それに伴って人間に求められるハードルが上がっていくことも忘れてはいけない。
読書感想文
自分が学生の頃は、文章を書くときは、とにかく長く書く事を求められていた。
読書感想文であれば、原稿用紙何枚以上と決められていて、仕方なくどうでもいい文章を足したり、無駄な解説を入れたりして引き延ばしたものだ。評価方法としても、沢山書いた、それだけで褒めていた教師が多かった。
今考えてみればおかしな事だ。
長く書くより短く纏めるほうがはるかに難しいのだから。
長い文章であれば、言いたいことをすべて伝える事は容易だ。
しかし、それは読み手の事を考えない自分勝手な文章である。
短くコンパクトで、要点がまとまった文章は、とても美しい。
そして、自分が伝えたいことをコンパクトに纏める能力「要約力」は、文章を書く仕事に就く人にだけ求められるものではない。
例えば、会社のプレゼンで長々と話すより、要点を短く纏めたプレゼンのほうが、はるかに印象がいい。
日常会話でも、沢山喋っているのに相手に全然伝わらないな、と感じる人は、概ねこの能力が足りない。
文章は長い方が良い、という教育がそのままなのかもしれない。
プレゼンが下手な人や、言いたいことを伝えるのが苦手な人は「自分が書いた文章を可能な限り短くする」という練習をすると、効果的だと思う。
自分も文章が長くなりがちなので、もっと要約力を磨かないと…
読書と打算
趣味は?と聞かれた際は読書とゲームと答えるようにしている、月並みだが。
しかし、読書が趣味と言いながら、毎日のように本を読んでいるかと言うと、そうでもない。
直近に読んだ本と言えば、昨年出た十二国記の新作ぐらいだ。
むろん、読書が好きなのは嘘ではない。
小学生の頃に、初めてシャーロック・ホームズを読んでからは、本の魅力にはまり、毎日のように読み漁った。図書館へ行くのも大好きだった。
なぜ今、読書をする機会が減ってしまったのか。
理由は一つではないが、大きなウェイトを占めているのは「大人の打算」だと思っている。
長編小説を読むのは、相応の気力が必要だ。
そして全ての小説が、読み終わった後に満足できる作品かというと、そうでもない。
読んでいる途中で「なんか合わないな」と感じたり、ラストの展開によっては、読後にもやもやした気持ちを抱え続けたりする。
そういった経験をするにつれ「読書は楽しい事ばかりではない」と学んだのだ。
つまり「本を読む労力」より「得られる楽しさ」が少ない経験、これが読書に対して億劫になった原因だ。
楽しめるかどうかわからない物に労力をかけたくない、という子供の頃には無かった大人の打算。
結果、お気に入りの作家の作品が出た時だけ、本を買って読むようになった。
この人の作品なら読むための労力以上の楽しさを得られるに違いない、という信頼があるからだ。
続く
ショートショート
続き
読書が好きなのに、読書の機会がめっきり減ってしまった。
理由についてまとめると「読むのに手間がかかる」「その手間を上回る満足が得られない」という点だ。
このままではよくない、なんとか積極的に読書をしたい。
そう考えた末にたどり着いたのが「ショートショート」と呼ばれる短い小説だ。(実はもう一つあるのだがそれはまたいつか)
ショートショートの詳しい定義は無いようなので、単純に短めの小説だと思ってもらえれば良い。
ラストにちょっとしたオチがあるのが一般的。
自分のように、読書が億劫になった人にショートショートが勧められる理由は次の二つだ。
まずは単純に短い。短ければ読むのに手間がかからないし、気が向いたときにさっと読み終わることができる。
そして、文章が短い分読む側のハードルが低くなる。
長編小説は読むのに時間がかかるから、その分の相応の満足感を求めてしまう。
ショートショートであれば、最初からさほど期待はしないので、気楽に読めるし、面白くなかったとしても時間がかかってないので後悔もない。
これはゲームにも共通することで、フルプライスでプレイに時間がかかるゲームがつまらなかったら残念な気持ちも大きいが、数百円で買ったミニゲームがつまらなくても気にはならない。
最近本を読んでないな、
そう思った人はショートショートを試してみてはいかがだろう。
因みに、もう一つの方法とはAudibleだ。
レトロゲームの境界線
一口にレトロゲームと言っても、その言葉の範囲は人によって異なる。
自分にとってのレトロゲームとは「ファミコン」や「スーファミ」
年上の方は、インベーダーゲームや古いアーケードのゲームかもしれないし、若い世代であればプレステやサターン、64もレトロと言う人も居るだろう。
年月が経つにつれレトロの範囲は拡大していくものだが、PS2のゲームをレトロと言う人はあまり居ないのではないか。
PS2が発売されたのは20年以上前。
レトロゲームを年月で定義するのなら、レトロ扱いされても不思議はない。
例えば、PS2が発売された時点では、ファミコンは17年前のゲームだった。
当時ファミコンがレトロゲームという感覚は普通にあったはず。
ファミコン(1983年発売)→プレステ2(2000年発売)→現在
レトロという感覚は、単純な年月の経過が絶対的な基準ではなく、時代の濃さが重要なのだと思う。
ファミコンが発売されてから17年間のゲームの進化と、PS2が発売されてからの20年では、後者のほうが進化が緩やかだと言える。
グラフィックや容量は進化しても、ゲームそのものの構造を大きく変えるような進化は、後者の期間では起こっていない。(あえて挙げるならVRぐらいか)
この先もゲームが劇的な進化を遂げなければ、プレステとプレステ2の間が、レトロゲームの境界線と言えるのではないか。
名言
名言とはなんだろう、と考える事がある。
名言とされる言葉のほとんどは、言葉だけを切り取ると、ごくごく当たり前の事を言っていることが多い。
なぜ、当たり前の言葉が「名言」となりえるのか。
それは、言葉を発した人が、偉業を成し遂げたり、成功者であるからである。
逆に言えば、成功者がそれっぽい事を言えば、なんでも名言となる可能性がある。
数十年演技をしてきた名俳優が「未だに、演技とは何かがわからない」といえば名言となり、
若手俳優が「未だに、演技とは何かがわからない」といえばそりゃそうだとなる。
重要なのは言葉を発する人間がどういう人間か、という点であり、言葉そのものはさほど重要ではないとも言える。
名言っぽい事を言ってみたいなぁ…と思う事があるが、成功者ではないのでそれが名言になることはないだろう。
作業ゲー
ゲームがつまらない理由として「ひたすら作業」「作業ゲー」と言われることがままある。
これが個人的にどうもひっかかる。
そもそも、大体のゲームは言ってしまえば作業だ。
スーパーマリオブラザーズだって、土管や穴を飛び越える作業ゲーと言えなくもない。
でもそういう評価をする人は居ない、それは何故か?
プレイヤーが「作業」と感じてないからだ。
用意された内容に、楽しさや面白さがないと、プレイヤーは「ああ俺作業してる(させられている)な」と感じる。
つまり「作業ゲーだから面白くない」のではなく「面白くないから作業をさせられていると感じる」のだ。
ゲームを「作業」だ、と思わせている別の要因があるという事。
ゲームを批評する時は「作業ゲー」と言わずに、「作業」だと思わせてる原因、理由を述べるようにしたほうが、正確で的を射た批評になると思う。
穏やか
「穏やか」という言葉が好きだ。
「幸せな日常」「楽しい日常」より「穏やかな日常」に魅力を感じる。
穏かな休日の朝、洗濯を済ませたら人のいない綺麗な海辺を散歩する…
お昼は簡単な料理を作って…
昼食を済ませたらテラスでゆっくり本を読む…
うとうとして目が覚めると、猫が膝で一緒に眠っていた…
干していた布団を取り込んで、少し手の込んだ夕食作り…
夕食後には海を眺めながら物思いにふけって…
夜はお日様をたくさん浴びた布団で眠る…
そんな休日を過ごせる日が、いつか訪れるのだろうか。
けなさない
文章を書く際に気をつけていることが一つだけある。
「けなさない」
批判や文句の文章は、見る人が不快になるのが一番の理由だけど、楽をしないという理由もある。
マイナスの文章は書くのが楽だ、いくらでも書ける。
その反面プラスの文章は難しい。
嘘の誉め言葉なら簡単に書けるけど、それでは意味が無い。
文章を書く対象の本質的な良さが判らないと上手く書けない。
また、別の目的として、他人の良い面を見るように習慣づけるという理由もある。
どんな人でも、良い面を見るようにするのは必要だとわかっている
でも実際の人付き合いでそうするのは難しい。
文章でけなさないことで、日常生活でも、他人をけなしたりしたい人間になれればいいな。
祠(ほこら)
自分の実家は田舎なので、山や海などの自然は身近だった。
小学校低学年の夏休みのこと。
実家の近くの山沿いには長い階段があり、それを上ると少し開けた場所に小さな石の祠が置いてあった。
そこは、ほとんど人が来ないような場所で、秘密基地的な雰囲気だったので、友達と遊び場にしていた。
ある夏の日、友達の都合がつかなかったので、一人で祠に遊びに行った。
長い階段を上って祠に着くと、いつもは閉まっている祠の扉が少しだけ開いていた。
日ごろから「祠の中ってどうなってるんだろ?」と気になってはいたものの、扉を開けることが、悪い行いのような気がして、誰も開けたりしなかった。
その扉が、少し開いているのである。
中を見たい。でも覗いたらダメな気がする。
でもでも、自分が開けたわけじゃないし。
そんなようなことを思いつつ、隙間からそっと中を覗くと
目が合った
祠の中からも、何かの目がこちらを見ていた。
中は暗くてよく見えないが、目だけははっきりと見える。
動物?
けれど、祠の扉はセンチも開いておらず、動物が入れそうな隙間はない。
それに、明らかに動物の目では無く、人間に近い目だった。
祠は小さく、子供だとしても入れるような大きさではない。
そこまで考え、急に怖くなってその場から走って逃げ出した。
それ以降は、祠が怖くなって、一人では近づかないようにした。
暫くして、地区の清掃活動で祠周辺を掃除することになった。
気は進まなかったのだけど、大人もいるし、人数も多いので渋々掃除に向かった。
すると、祠の扉はすべて開いていて、中には何も無かった。
後に祖母に聞いてみたが、何時からあって何のための祠なのか、祖母にもわからないらしい。
あの目はなんだったのだろう…
半分の男の子の話し
電波気味
あるところに 男の子がいました
その男の子は いつも心が孤独でした
友達と遊んでも 家族と話しても いつもいつも孤独を感じていました
あるとき男の子は思いました 自分はきっと半分の人間なんだ、と
一人の人間として生まれるべき人間が 二つに分かれてしまったんだと
それから男の子は いろんなところを旅して 自分の半分を探しました
いろんな人と出会い いろんな話をして いろんな体験を重ねました
そうしているうちに ボロボロの女の子と出会いました
その女の子は 空気みたいな存在で 一緒にいてとても落ち着きました
君が 僕の半分なんだね
うん でも私はもう ボロボロでポンコツだから 捨ててください
私と一つになったら きれいなあなたまで汚してしまうから
僕の半分は君しかいないよ 君を失うと僕は一生半分で生きていかなくちゃ
それに ずっときれいな人なんていないよ
僕がきれいに見えるなら きっと誰かを汚して生きてきたんだ
君は 他の人の汚れまで もらって生きてきたんだ
だから 君と僕で ぴったりなんだよ
そういって女の子を強く抱きしめました
これで終りではなく続きがある が
暗い内容だし自分の心の中にとどめておきたい
聞いてみたいって人が居ればいつかアップするかも 居ないよね
物語を紡ぐ
いつか記事にしたいと思っていた、とても心に残った話がある。
ドラゴンクエストXの元ディレクター齋藤力さん(愛称りっきー)の言葉。
「ゲームを作るのではなく、物語を紡ぐのが私たちの仕事」(正確には「おはなしを作る」と言っていたかもしれない)
まず、この言葉が出た経緯を説明したい。
ドラゴンクエストXTVという、ドラクエXの情報を紹介する配信番組がある。
その中に、不具合修正をディレクターが自ら説明するというコーナーがあった。
対象となった不具合は、宿屋に配置されている「旅のコンシェルジュ」というNPCの修正。
コンシェルジュという名前の通り、丁寧な口調で話すのだが、一人だけ普通の口調で話すコンシェルジュが居た。
これは単純なテキストのミスなので「修正しました」とだけ言えば良いし、そう流してしまう作り手も多い。
ところが、りっきーは
「(キャラ名)さんに教育が行き届いて居なかったので、口調を教育しました。」
と紹介したのだ。
その後、冒頭の「おはなしを作るのが私たちの仕事」という言葉に繋がる。
確かに実際に行った修正は、ただのテキストの修正だが、ゲーム内で急にキャラの口調が変わったら、そこには理由が必要なのだ。
その辻褄を合わせるための物語が「教育が行き届いて居なかったので再教育した」
これは本当に重要な考え方である。
オンラインゲームという時間に追われる開発環境であれば、ゲーム的な都合ばかりが優先され、物語はないがしろにされることが多い。
例えばグラブル
「全ダメージカット」というダメージを軽減するスキルがあるのだが、ある時からそれが通用しない敵ばかりになった。
ゲーム的な都合から見ると、スキルが強力すぎるので、どんな敵にも対応できてしまうから無効にしたという理由があるのだが、そこに物語は無い。
何故今まで有効だったものが通用しなくなったのか、今までの敵とどう違うのか、その理由付けは一切ない。
これはグラブルが悪いということではないし、どんなオンラインゲームでも多かれ少なかれあること。
しかし、本当はきちんと物語を用意して辻褄を合わせないといけないのだ。
物語を紡ぐことを放棄し、ゲームの都合ばかり重視した変更が行われると、プレイヤーの気持ちは冷めてしまう。
オンゲー開発の過酷な環境で、物語を紡ぐ事を放棄しなかったりっきーは本当に貴重だった。
それが堀井さんから続くドラクエイズムの一つなのかもしれない。
余談
りっきーの名言(迷言?)に「不具合じゃねーよ!」という言葉もある。
これは開き直りの言葉に聞こえなくもない。
が、ゲームの中には一つの世界があり、そこにキャラクターは生きている。
生きているキャラクター達に対して不具合という言葉は適さない、という思いも込められているのかもしれない。(流石に拡大解釈だが)
さらに余談
その後、りっきーは残念ながらDQXのディレクターを辞めることとなる。
りっきー時代後半のDQXは、DQ11の開発に多くの人材が駆り出され、非常に大変だったと思う。
やりたいこともやれず、限られた中でなんとかやりくりするも、当然ユーザーからは不満の声も多く、受け止める矢面はりっきー。
それでも真摯にユーザーに向き合うりっきーだったが、本当の理由は言えない(DQ11に人を取られたなんて言えば、イメージが悪くなってしまうので言えるわけもない)
ドラクエXTVで日に日に痩せ、顔色が白くなっていくりっきーを見るのはとても胸が痛かった。
口では大丈夫と言っていたが、とてつもない心労だったはずだ。
最後には「これから先の予定を考えた時に真っ白で何も浮かばなくなった」と言うくらい追い詰められていた。責任感が強すぎたのだと思う。
現在はどの会社で何をしているのか知らないが、また彼が作るゲームを遊んでみたい。
そう思わせてくれる素敵なクリエイターだ。
ときメモとラブプラス
ときメモやラブプラスなどの恋愛ゲームは大きく四つに分類出来る。
1、主人公の育成要素の有無
2、告白(あるいは結婚)がゴールかスタートか
A 育成要素がある→告白がゴーㇽ→ときメモ みつめてナイト等
B 育成要素がある→告白がスタート→※
C 育成要素がない→告白がゴール→一番多いタイプの恋愛ゲーム ADVなど
D 育成要素がない→告白がスタート→ラブプラス
※因みに育成要素がある告白がスタートの作品はタイトルが浮かばない。(存在するとは思うのだが)
分かり易くするために「Aのときメモ」と「Dのラブプラス」で比較をしてみる。
ときメモタイプのゲームは目当ての女性と付き合うには兎にも角にもパラメータが大事である。
勿論デートに誘って好感度を上げるという手順も必要だが、ベースにあるのは主人公自身のパラメータ。人間としての魅力。
何度デートを重ねてもパラが低いと恋人にはなれないし、パラが高くなれば全く関わっていない女性まで自然と好意的になりモテる。
これはまさに「リアルの恋愛」と言えるだろう。
プレーヤーは甘い恋愛を体験しつつも「自分を磨かなければモテない」という厳しい現実を学ぶ、そういう意味で初代のメインヒロインが要求パラメータが高い藤崎詩織なのは納得だ。
「(リアルの)恋愛をシミュレーションする」という意味では現実に寄せたシステムである。
一方、ラブプラスは目当ての女性と付き合ってからがスタートだ。
恋人になるまでに特に難しいことはないし、付き合ってからもフラれたりはしない。(多分)
自分を磨く、相手に好かれる、という苦労をせず恋愛の甘い部分だけ体験できる。
ときメモとは真逆の「バーチャルの恋愛」と言える。
因みに、ときメモも2からは親しみやすく攻略しやすいキャラがメインヒロインとなっていく。ユーザーからの反応を考慮した結果リアルからバーチャルにシフトしていったのだろう。
苦労せず甘い思いをしたいというのは人として当たり前なので、今後もバーチャル寄りの作品が主流となるだろう。
ときメモのように恋愛の厳しさを学べる作品も消えずに残っていって欲しいものである。