日記セレクション 

気が向いたら書いている日記。

基本は、無計画で起承転結も無い駄文だが、ごくたまにそれなりに読める文章もある。
そういったものを集めてみたい。
また、内容が分かるようにタイトルも付けていく。

ミュウ

ミュウのはなし。

元祖幻のポケモンであり、人気も高いミュウ。
ポケモンの中でミュウが一番好きだという人も多いだろう。

だが、自分にとってのミュウは、子供の頃の苦い思い出だ。

ミュウというポケモンの存在自体は、ゲーム内の文章で語られていた。
しかし、ゲーム内で出会えるのはミュウツーだけで、ミュウはどこにもいない。

当時はインターネットなんてものはなく、ゲーム雑誌やコロコロなどの漫画雑誌だけが情報源だったので、通常の方法で入手できないなんてことはつゆ知らず、ミュウツーが居るならミュウも居るはずだと信じて、ナビオ少年はひたすらゲーム内を探し回っていた。

そんな折、とある雑誌で「ミュウの入手方法が判明!」という見出しがあった。
ワクワクしながらページをめくると…そこに書いてあったのは「〇〇に来場すればミュウをプレゼント!」

子供ながらに、この時の絶望感はなかなかのものだった。
当時のナビオ少年は地方の田舎に住んでいたので、都会のイベントに行くなんてとても考えられないことであった。
なにより、ゲームはソフトを買ったらそれですべてを遊べるものだと思っていたのに、こういった形で後から要素が追加されるというのも初めての経験で、なかなか理解が出来ず、しばらく受け入れられなかった。

「ゲーム」という自分だけの世界で、自分の力ではどうにもならないという事実を突きつけられる、あまりにも苦い経験だった。

これがあったからかどうかは定かではないが、以降はポケモンに興味が無くなっていた。
それから暫くたって、ミュウを入手できる機会はかなり増えていったが、ミュウそのものに対して一定の拒否反応があるのか、機会があっても入手しようとは思わなかった。

子供の頃に叶わなかった欲求を、大人になってから満たすという話もある。
が、自分にとってミュウはこの先もずっと、苦い思い出であり続けるのだろう。

自分のコスパ

自分自身に対するコスパのはなし。

一応説明しておくと、コスパとはコストパフォーマンスの略で、費用対効果。
かけたコストに対して得られる見返りが多ければ、コスパが良いと言える。

それは別に知ってるけど。
じゃあ、自分のコスパってなんなのよ、という話。

例えば、少し寒いなと感じる日があったとする。
暖房を入れれば暖かくなるが、入れなくても我慢すれば過ごせそうだ。
電気代の節約にもなるし、ここは我慢するか…

このような行動は、自分自身にとって本当に得なのか?
確かに、電気代を節約したという点ではコストが削減出来ている。
が、我慢したことによって、寒いからと早めに布団にくるまってしまったのだとしたら、それは本当に得なのだろうか。
我慢せずに暖房をつけていれば、布団に入らずに別の作業などが出来たかもしれない。
たとえ電気代が増えたとしても、トータルで見たらそちらのほうがプラスなのではないか?ということ。

これは様々な分野で良くあることで、わかりやすい数字を優先した結果、トータルで損をしているというケース。
完全に機械を相手にするならいざ知らず、殆どの物事は人間が関係している以上、数字では測り辛い意欲やモチベーションが結果に大きな影響を与える。

我慢も大事ではあるが、自分自身のコスパを最大化できるように、かけるべきコストはしっかりかけていきたい。

ただ、一歩間違えるとただの甘えになりかねないので、難しい所ではある。

サイン

サインのはなし。

子供の頃から理解できなかったことがある。
ただ、それを口に出すと、まわりから変な奴だと思われそうなので、ずっと心に秘めていた。

それは
「有名人のサインを貰うと、嬉しいの?」ということ。

スポーツ選手にしろ、アイドルにしろ、ポピュラーなファンサービスとして定着しているサイン。
だが、サインを貰って嬉しいという感覚が、まったくない。

「有名人に会ってサインを書いてもらった!」という行為自体が大切な思い出になるのはわかるが、サイン自体にはなんの価値も見いだせない。
なので、他人の為に書いてもらったサインを高値で買うのなんてもってのほかだ。

これは、有名人で好きになった人が居ないということも原因かもしれない。
子供の頃なんかは好きなスポーツ選手の一人でもいそうなものだが、特にいなかったし、成長しても特定の人物のファンだと自称したことは殆どない。
一応、小野不由美さんと京極夏彦さんの作品のファンではあるが、あくまで作品のファンであって、ご本人のファンではない。

とはいえ、仮に好きな有名人が居たとしても、サインを欲しいとはならないと思う。
おそらく、この感覚だけはこの先も一生理解できないままなんだろう。

ゲーム内説明文

ゲームの説明文についてのはなし。

ゲーム内で表示される説明文。
これが開発者の方に、そこまで重要視されているとは感じない。ちゃんと伝わればいいやぐらい?
プレイヤー側も、似たような認識の人が多いと思うので、別にそれでいいと思う。

が、説明文一つでゲームの評価が変わってしまう場合もある。

たとえば、ゲームの難易度についての説明文。
RPGの難易度にノーマルとイージー、ハードが存在したとする。
三つの難易度で、経験値の入手量に変化をつけ、それに説明文を付けた場合
概ね
イージー「経験値入手量が増えます」
ノーマル「入手量は基準値です」
ハード「経験値入手量が減ります」
このような説明になると思う。

が、この書き方だと、ハードを選ぶプレーヤーに「損をしている」という印象を与えてしまう。
通常より強い敵と戦っているのに、入手できる経験値も少ないとあれば、尚更。

なので、書き方を変えて
イージー「経験値入手量が大きく増えます」
ノーマル「経験値入手量が増えます」
ハード「経験値入手量は基準値です」
説明文をこのようにすると、まったく同じ仕様であっても、少なくとも損をしているという印象は抱きにくくなる。

ゲームの仕様は同じでも、説明文の書き方でプレイヤーに与える印象は結構変わる。
軽視されがちだが、重要な要素だ。

リアルな夢

夢のはなし。
ごくごくたまにだが、ものすごくリアルな夢をみることがある。

直近で覚えているのは、昔実家で飼っていた猫の夢だ。

布団で横になっていたら、近づいてきて、身体の上に乗ってくるものが居る。
その時は夢の中なので、何の疑問も無く「ああ、〇〇が一緒に寝たくて乗っかってきたんだな」と思って、撫でてやっていた。
と、そこで夢から覚め、今のは夢だったんだなと気付くのだが、手に残っている感触があまりにもリアルなのだ。
本当に、そこにいた猫を撫でたとしか思えないような感触。

夢なのに、あそこまでリアルな感触があるものだろうか?

他には、昔付き合っていた人の夢を見た時に、驚くほどリアルな抱きしめている感覚が残っていたことがあった。
そこに人が居たとしか思えないような感覚。

本当に、ただの夢だったのだろうか。

YouTubeと生配信

昨今は、YouTubeなどで、誰もが簡単にゲームの生配信ができる時代だ。

ところで「配信したい!」という気持ちの根底にあるものはなんだろう?

もちろん「配信者として有名になってお金を稼ぎたい!」という人も居るだろう
が、もっと素直な部分では「誰かに見て欲しい」からではないだろうか。
友達の家に集まってゲームをプレイしていた頃のように、皆でワイワイ言いながらゲームをプレイしたい、そういった気持ち。

「まさに配信がぴったりじゃん」と思うかもしれないが、実は違う。
「誰かに見て欲しい」という気持ちの本質は、「相手が誰でもいいからみて欲しい」わけではない。
本当は「気が合う友達に見て欲しい」のだ。
それが難しいから仕方なく、不特定多数に向けて配信をしているし、見る方も、仕方なく、自分の趣味に合いそうな配信者を見ている。
つまり、お互いに妥協した結果が、現在のゲーム配信だと言える。

これは、Twitter等のSNSにも言えるのではないか。
本当は不特定多数に向けたtweetではなく、ちゃんと話を聞いてくれる友達と会話をしたいが、それが難しいから代用品で済ましている。

そして、妥協した代用品で気持ちを満たしているから、本心からは満たされず、すぐにまた気持ちの空腹が訪れるのではないか。

幽霊

幽霊のはなし。
自分は霊感が無いので、幽霊と遭遇した経験は無い。

が、世の中にはいろいろな幽霊体験話がある。
それらの真偽のほどはわからないが、一つ思うのは「幽霊が脅してくる系の話は盛ってる」ということ。

例えば有名な話だと『金縛りになって幽霊がいる気配がした、怖いので念仏を唱えると「そんなの無駄だよ」と言われた』
この話であれば、前半部分はまあ真実ではあろうと思う、が「そんなの無駄だよ」の部分は嘘だと思う。

幽霊がどんな存在なのかはわからないが、少なくとも「意志」を持っているとは思わない。
脅してくる系の話は、明らかに「こちらを脅かそう、怖がらせよう」という意思が存在する。
その話に存在する意志は、幽霊の意志なのか?いや、話者の意志ではなかろうか。

ネット広告

ネット広告の話。
YouTubeやネットの広告については、効果が無いどころか逆効果だと常々思っている。

画面いっぱいに広がってミスクリックを誘うような広告はストレスでしかないし、YouTubeのCMも基本不快でしかない。
ネット上の広告が動機になってお金を使ったことなど一度もない。
なんなら詐欺紛いの悪質な広告も多い。

地上波を見なくなって久しいが、地上波のCMはネット広告に比べればまだマシだったなと思う。
そもそも、地上波はCMを考慮して番組が作られているので、変なタイミングでCMに入ることは無い。
それに対して、動画や生配信のCMは入るタイミングが一切考慮されないので、いい場面をぶった切って広告が入ることはザラだ。
動画であればまだ、中断されるだけで済むが、生配信だと完全に見逃すケースもある。

で、視聴者はそれを嫌がって有料プラン等に入るわけだが、この仕組みは考えてみると本当に謎だ。
広告主はお金を払って視聴者に見てもらう為に広告を打つ。視聴者は広告を見たくないので有料プランに入る。
この二者は、どちらも運営サイトにお金を払っているのだ。

お金を貰って広告を流し、それを嫌がる人からお金を貰う。
どっちにしろ運営が儲かるという悪魔のような仕組み。
この仕組みがまかり通っているのは凄いなと思う。

嫌いな言葉

突然だが、嫌いな言葉ワースト3の話。

第三位「これ、今すぐやめてください」
この言葉は、日常生活ではほぼ聞かないが、youtubeのサムネで目にすることが多い。
いわゆる釣りサムネである。
多くの人が思い当たる事をやめてという事で「え、自分やってるけど、やめたほうがいいの?」と不安を煽って動画を視聴させる手法である。
一応、こういったサムネの動画の中にも、有益な動画がないわけではないのだが、だいたいが役に立たない情報か、根拠もない嘘情報の動画である。

第二位「まるで今の日本みたいだ」
この言葉は、わりとどんな状況でも急に発せられる事があるので不快度が高い。
ドラマや映画を見ながら、ゲームをプレイしながら、どんな状況でも言おうと思えば言える。
だいたいが、今の日本を憂いているような使い方で、プラスの意味で使われることはほぼない。
不快なポイントとして、場違いだという点がある。
ゲームをプレイしている時やドラマを見ている時などに、日本の現状について語る気などない。
そういった話題には、適切な場所があると思う。
とりあえず現状を憂いておけば良い、と言った短絡さも不快な点である。
そもそも、自分は日本に生まれたというだけで圧倒的に恵まれていると思っている。
大なり小なり不満な点は人それぞれあると思うが、少なくとも明日生きられるかどうかという、命が脅かされるような状況には無い。
それだけで十分幸せだ。

第一位「人間は愚か」
映画やドラマ、ゲームで人間が酷い行いをすると発せられることが多い。
確かにその通りではある、が、「だから何?」という気持ちになる。
大前提として「そんなことはわかりきっている」からだ。
ヒトコワ系の「一番怖いのは人間」に通ずるものがあるかもしれない。
分かり切っていることを改めて言われるのは不快感がある。
今から勉強しようと思っていた時に「勉強しなさい!」と言われるとやる気がなくなるのに近い。

と、このままではただ不満を吐き出しただけで終わってしまうので、嫌いな言葉が好きな言葉に変わる改善策を検討してみたい。

「まるで今の日本みたいだ」→「まるで今の日本みたいだ、本当に恵まれている」
マイナスの面ばかりではなくプラスの面も見て行くようにしたい。
海外の人が日本や日本の食事を褒めたりする動画を見るのが好きな人は多いはずだ。
また、海外に住んだ経験のある人は日本がいかに良かったか思い知ることも多い。
恵まれている環境に居ながら不満ばかり漏らすのは、勿体ない生き方だと思う。

「人間は愚か」→「人間は愚か、だからこそ愛おしい」
人間は確かに愚かかもしれないが、その愚かさも含めて愛おしい存在だと思う。

因みに「これ今すぐやめてください」は救えなかった。

呪い

願いと呪いのはなし。

「願うこと」と「呪うこと」は、本質的には同じ行為だと思う。
主観的に見て、自分にとってプラスであれば「願い」マイナスであれば「呪い」と分類しているだけだ。

自分にとっては願いでも、他人から見たらそれは呪いかもしれない。
分かり易く例えると、スポーツで自分のお気に入りのチームが勝ってほしいという願いは、相手チームのファンからしたら呪いだ。
宝くじを買って当たってほしいという願いは、自分以外の全ての購入者にとっての呪いと言える。

願う事と呪う事は、立場によって表す言葉が違うだけで、まったく同じものなのだ。
願いを抱けば、同時に呪いも発生する。

だからといって「願うことをやめて無欲に生きよう」などと聖人ぶったことを言うつもりはない。
誰かの幸福が他の誰かの不幸になることはこの世の中の常なので、それを否定はしない。

願いも呪いも程々に…

平均化

平均化のはなし。

自分は、どちらかと言えば字が下手な方だ。
だが、ほとんどをパソコンやスマホで済ませられるようになった現在、字の下手さを気にする機会は非常に少なくなった。

こんなふうに、技術の進歩によって、日々、さまざまなことの平均化が進んでいる。

この平均化は、自分のように字が下手な人には有り難いが、字が上手な人にとっては、自分の良さを発揮する機会が減ってしまったとも言える。
もちろん、一部のプロフェッショナルな人は変わらず評価されていくが、一定以下は全て同じになる。
点数で表すと、90点や100点の人間は重宝されるが、80点以下の人は等しく同じ80点。そこに差はない。

皆が80点なら別にいいじゃないか、と思えたりもするが、そう簡単な話でもない。
人間は本能的に、他人とは違う特別な存在であろうとするからだ。
なので、どうにかして他人より価値のある存在だと証明する必要がある。
自分は替えが利かない特別な存在である、と。

以前は、字が上手いということで他者と差別化が出来たのに、今はそれができない。
平均化が進むことによって、自分が他者より優れていると証明することが、どんどん難しくなっていると言える。

「多様性」という言葉はあまり好きではないが、最近しきりに多様性が叫ばれるようになったのは、平均化によって、以前は感じられた個性が失われていくことに対する、本能的な危機感からくるものなのかもしれない。

ゲーム愛

ゲーム愛のはなし。

「ゲーム愛」という言葉は、どちらかと言えばマイナスの文章で使われることが多い。
「ゲーム愛が足りない」「ゲーム愛が感じられない」など。
言葉の対象は、動画制作者や配信者、ゲーム批評家であることが多い。近年では特に配信者か。
愛という言葉が使われているが、実際の意味はリスペクトの方が近いだろう。「ゲームに対するリスペクトが足りない」

そもそも「ゲーム愛」とは何かという基準が曖昧なので、あまり使いたくはない言葉ではあるが、確かにその通りだなと同意したくなるケースもある。

自分が一番気になるのは「キャラ叩き」だろうか。
ゲーム内のキャラは現実の人間ではないので、好き放題に悪く言っても許されると思われている節がある。
特に配信者は、口が悪いのが安易かつ効果的な特徴付けになるので、その傾向が強い。
ただ、どうしようもない悪人であるならともかく、ちょっと落ち度があるぐらいで、過剰に悪く言うのはどうかと思う。

また前提として、ゲーム内のキャラを叩くということは、そのキャラを好きな人を傷つける行為であって、無制限に許容されるわけではない。

そもそもの問題として仮にゲーム実況を禁止された時、配信者としてやっていける人がどれくらい残るだろうか。
それぐらい、今の配信業界はゲーム実況に依存している。
もちろん、ゲームメーカー側にも一定のメリットがあるのは違いないが、仮にメーカー側がゲーム配信の全面禁止を打ち出してもゲームメーカーは存続するのに対して、配信業界の多くは消えていくだろう。
また、今は個別に許可を出すより全体ガイドラインを提示するという手法が主流だが、あまりひどい配信者が増えると、特定の信頼できる配信者のみに許可を出してそれ以外は全面禁止、というスタンスに変わる可能性だってある。

ゲーム配信は当たり前の権利でもなんでもなく、人の褌で相撲を取っているという大前提が存在するので、最低限のリスペクトは要求される。
そこを勘違いした言動をとると「ゲーム愛が無い」と言われるのだろう。

文章の後味

食べ物とおなじように、文章にも後味がある。
そして、後味は結構重要だ。

例えば、ゲームのレビューでは、良い点と悪い点を挙げる書き方が一般的だ。
この場合、良い点→悪い点と書くケースが多いが、そうすると、後に読んだ悪い点の印象が後味として残ってしまい、トータルの内容的には褒めていても、後味はマイナス気味になる。

もちろん、冷静に判断が出来る人であれば、後味に引っ張られることなくトータルで考えることが出来るが、そんな人はごく少数だ。
なので、褒めたい場合は、悪い点→良い点と書く方が後味を含めて効果が高くなる。
因みに自分は、良い点→悪い点→まとめ というスタイルで書くことが多いが、この場合最後のまとめで褒めるようにすれば後味は良くなる。

余談だが、これは文章に限らず対人関係においても同様らしい。
褒める→褒める、貶す→貶す、貶す→褒める、褒める→貶す、という四パターンのアプローチを行った場合、一番好感度が高かったのは、貶す→褒めるというアプローチだそうだ。
褒める→褒めるは二番目で、褒めっぱなしよりも一旦貶した方が高いのは意外だ。
また、貶す→貶すより、褒める→貶すのほうが好感度が下がるという研究もある。
流石に貶しっぱなしのほうが下だと思うので、そこの信憑性は疑問だけど。

ただ、確かに
あなたの話は面白い(褒める)→でも人見知りで自分から話しかけるのが苦手だね(貶す)
あなたは人見知りで自分から話しかけるのが苦手だね(貶す)→でも、話してみると面白い(褒める)
この二つは言っている内容は同じだが、後者の方が言われた時の印象が良い。

上げてから落とすより、落としてから上げる。
文章も会話も後味の良さを意識したい。

三点リーダー

…(三点リーダー)のはなし。

自分の文章に…(三点リーダー)をつかうことは比較的おおいが、違和感をかんじている人がいたかもしれない。
三点リーダーは二つ繋げてつかうのが正しい」というルールがあるからだ。

実は、自分もこのルールは知っている。
が、あえて守っていない。

というのも、このルールの由来を調べると「昔の印刷技術では、…(三点リーダー)一つでは細かすぎて印刷できないので、二つ並べてつかうようになった」らしい。
つまり、印刷技術が発達した現在では、守る必要性がない無意味なルールだと言える。
印刷する必要が無い、ネット上の文章であれば尚更。

この例に限ったことではないが、
ただ「ルールだから」と思考放棄せずに、なんのために存在するルールなのか、それは本当に必要なルールなのか、疑問を抱くのは大切なことだと思う。

頑固にならない

近年心がけていることがある。
それは「頑固にならない、意地を張らない」

年齢を重ねることで、年々頑固になっている実感がある。
元々、自分の意志や主張がはっきりしている性格ではあるが、その傾向がより強くなっていると感じる。

ただ、これはわりと誰にでも当てはまることだと思う。
と言うのも、年齢を重ね様々な経験をすることで、自分の中に過去の経験からくる定説のようなものが形成されてくるからだ。
そうやって形成された定説を、他人の意見で否定される時、人は頑固で意固地になる。

若いころは、こういった人をみて「頑固でどうしょうも無い人達だな」と思っていたが、今なら気持ちがわかる気がする。
頑固な人も、頭の中では自分が間違っていると解っているはずだ。
ただ、間違いを認めてしまうと、自分の生きてきた人生そのものが否定されるような気がして、間違いを認められないのだ。
別に間違いを認めたからと言って、自分の過去が否定されるわけではないのだが、なぜかそう思い込んでしまう。
結果として、頑固になっていく。

この傾向は、成功した人生を送ってきた人ほど、より強くなるはずだ。
自分の過去が輝かしいほど、それを否定することもより難しくなる。
優秀な会社の社長が晩年に大きな判断ミスを犯すのも、これが原因なのかもしれない。

そんなわけで、日々頑固になっていく自分を、日々是正しながら生きていきたい。

ヒロインの流行

ヒロインキャラの流行の話。
ゲームやアニメのヒロインの性格は、時代によって流行がある。

年代をきっちり区切ることはできないが、自分の記憶だと、昔多かったのは「お転婆、暴力系ヒロイン」だった。
らんまのあかねとか、シティハンターの香とか。
主人公との関係は、今でいうところの喧嘩ップル。

次に流行ったのは「無口、無感情系ヒロイン」
これは明らかに、エヴァの綾波レイの影響だ。
似たようなテイストのキャラは相当多く生まれ、今でもヒロインタイプの一つとして定番化している。

その次、と言えるかどうか微妙な所だが「ツンデレ系ヒロイン」の流行もあった。
こちらも今では一つのタイプとして定番化している。

では、現在の流行は?
諸説あると思うが、個人的には「チョロい系ヒロイン」所謂チョロインではないかと思う。
もっと大きな傾向としては「主人公大好き系ヒロイン」
特に理由もなく、最初から主人公に好意を抱いているというキャラ。
まあかわいい子から好意を向けられて嫌な思いをする人は居ないと思うので、多くの人に受け入れられるのは当然と言える。

時代性もあると思う。
最初は冷たく、そっけないヒロインでも、コミュニケーションを重ねて少しづつ仲を深めていく。
そういった当たり前のプロセスすら億劫に感じる人が増えた、でもコミュニケーションのうま味だけは味わいたい、じゃあ最初から主人公に好意を持たせてしまえば良い、と。

僕自身は逆張りオタクであるので、理由も無く好かれていると「なんで?」と逆に引いてしまうので、そういったキャラにハマることは少ない。
「じゃあ光は?」と思われる方が居るかもしれないが、光と主人公は幼いころからの付き合いと思い出があるので、きちんと理由が存在する。

結局何が言いたいかと言うと、主人公大好きキャラ自体は悪くないと思うが、納得できる理由は用意してほしい。と思う次第

逆張り

逆張りの話。
自分の気質は「逆張りオタク」なのだと思う。

超人気の話題作!と言われるとあまり見る気がなくなるし、行列の人気店!に並ぶ気は起きない。
世の中の多くの人が黒だと言っていると「いや本当は白なんじゃないか?」と言いたくなる。
面倒で厄介な性格だ。

ただ、逆張りも悪いことばかりではないと思う。
大勢の人が言っていることが本当に正しいとは限らない。
殆どの場合正しいのだが、それでも稀に間違っている時はある。

議論において、多くの人がAだと言っていても「いやBの可能性もあるよね」と提案することは必要だ。
仮にAが正しかったとしても、本当にそうなのか?と再検討して議論の正確性を高めることが出来る。

でも、順張りで素直な方が人生は楽しめるとは思う。

自分が逆張り性格になった理由を考えてみると、子供の頃感じた「多数決へのアンチテーゼ」に原因があるのではないかと思う。

海外がどうなのかは知らないが、我々日本人は幼いころから「多数決」という物事の決め方を教え込まれてきた。
学校のクラスで何かを決める時は、多数決で決定され、それを繰り返すことで、物事を決める方法は多数決が正しいのだと刷り込まれる。

しかし、大人になって気づく
「多数決とは、一番正しいものを選ぶ選択方法ではない」と。
多数決とは、あくまで「最も責任を分担できる選択方法」である。

何かを選択する際には、それを選んだ責任が発生する。
多数決を採用すると、一人当たりの責任を最小化することが出来る。
しかし、賢い人の一票も愚かな人の一票も同じ価値になるという大きな問題があるので、正しい選択を導くのには適していない。

そういった多数決の問題点が、子供の頃からずっと心に引っかかっていたため、結果的に多数決に反する逆張り性格になった…のかもしれない。

良心

「ああ、また良い子ぶってるな」こんな風に度々思う。
他人に対してではなく、専ら自分に対して、こう思う。

自分は、間違いなく善人ではない。
悪人ーーーー普通ーーーー善人 という天秤で測れば、悪60ぐらいの位置だろう。
だが、なにかにつけて良い子ぶって、善人であるかのように振る舞うことが多い。

このHPだってまさにそうだ。
意識してマイナスの文章を書かないようにはしているが、1つ文章を書けばその10倍は不満や文句が書けるぐらいの気持ちがある。
溢れてくる不満や文句を、いっそすべて口に出してしまえば楽なのに、とも思う。

そもそも、良い子ぶるとはだれに対して良い子ぶってるのか?
子供のころであれば親、学生時代であればクラスメイト、大人になってからは恋人や家族、仕事の同僚。
そういった人の前であるならともかく、このHPは特定の誰かとかかわりがあるわけではない。
なのに、それでも、良い子ぶっている。

もしかしたら、この気持ちこそが「良心」なのかもしれない。

ヒトコワ

人間が一番怖い、の話。

ホラー作品が好きでよく嗜む。

ただ、一つだけ言いたいことがある。
ホラー作品のパターンの一つである「ヒトコワ」系。これが個人的には好ましくない。

改めて説明すると、ヒトコワ系とは、超常現象や幽霊、ゾンビといった類の要素はなく、異常な人間が犯人のホラー作品。
これらを視聴した後、人々は必ずこう言う
「一番怖いのは人間だよね」
それに対して僕は毎回こう思う
「知っとるわ」

何が言いたいかと言うと「ホラー作品にヒトコワは求めていない」という事である。
人間が怖いなんてことは現実世界で十分すぎるほど知っているので、それをいちいちホラー作品で再確認する必要はない。
自分が見たいのは幽霊やゾンビ、妖怪など未知の怪異だ。
非日常体験をしたくてホラー作品を見ているのだ。

と言うのは個人的なワガママに過ぎないのだが、せめて視聴前にわかるようにしてほしいとは本気で思っている。

例えば恋愛作品でも、一般、BL、百合などは分類わけされていると思う。
「BLかと思ったら一般だった…BLが見たかったのに」と言うような勘違いを減らす為だ。
これと同じで
「幽霊かとおもったらヒトコワだった…幽霊がみたかったのに」となってしまって悩んでいる。

やりたいこと

自分がやりたいと思うことをやるのが一番いい。
この言葉はわりと罠だと思う。

もちろん、自分のように趣味でブログをやっている人間はそれでいい。
だが、世間的に成功したいと思うなら、自分のやりたいことを二の次にして、他人の求めるものを提供していく必要がある。
売れている漫画家の先生などは、自分が書きたいものより読者の好みに合わせて作品を書いているケースが多い。
最近であれば、人気の配信者は視聴者が求める役割を演じている人ばかりだ。
これは別に悪いことではなく、仕方ないこと。
自分のやりたいことをやる、というのは基本的に自分勝手なワガママであり、それが多くの人間に受け入れられることは極めて稀で、圧倒的な才能を持つ者のみに許された特権だ。

この言葉は子育てなどでもよく使われる。「子供がやりたいと思うことをやらせてあげたい」
確かに嫌がることを無理やりさせるのは良くない。
が、才能は無いが大好きな道と、才能があるそこそこ好きな道であれば、後者に導いてあげるのが人生の先輩である親の役目だと思う。
少なくとも、人生で成功したいなら自分のやりたい行動より他人に求められている行動をとる必要がある、ぐらいは早めに教えてあげたい。

どうでもいい仕分け

どうでもいい、の話。
他愛のない話というわけではなく「どうでもいい精神」と言えばいいだろうか、気の持ち用の話。

最近いろいろなことを深刻に考えすぎていたように思う。
そんな時は口に出してみる「どうでもいい」

自分が悩んでいること、不満に思っていること、気に病んでいることに対して言ってみる「どうでもいい」

もちろん実際にはどうでも良くないことも多いのだが、口に出すだけで意外と気持ちが楽になるのだ。

これはある種の仕分けなのかもしれない。
全て思考を一旦「どうでもいい」と捨ててしまうことで、その中から「いやこれは流石にどうでも良くはないな」と思ったことだけ回収していけばよい。
実際にやってみると「確かにどうでもいいな」と思ってそのまま捨ててしまえる悩みも結構ある。

定期的に「どうでもいい仕分け」を行って頭の中を掃除していきたい。

メインヒロイン

メインヒロインについて。

主人公が男性のゲーム作品においては、対となるメインヒロインが用意されるケースが多い。
物語の王道はボーイミーツガールであり、これを中心として様々な要素が付加され大きな物語を形成していく。
時には世界の命運をかけたりもするだろう。
が、どんなに壮大な話でも、芯にあるのは少年と少女の出会いである。

ルンファクシリーズにおいては、1-3まではそれぞれメインヒロインが存在していたが(3はわりと曖昧ではある)4からはメインヒロインという枠組みは無くなった。
このように変化した要因はいくつか考えられる。
一つは主人公が男女選択制になったので、どちらを選んでも影響がないストーリーにする為だろう。
もう一つは、ルンファクのような最終的に相手を選ぶゲームでは、物語に深く関わるメインヒロインはプレイヤーの思い入れも強くなるので、ほかのヒロインとの公平性を保つ為かもしれない。

個人的な意見として、メインヒロインは居た方が良いと思っている。
前述したように物語の王道はボーイミーツガールであり、これが存在することで物語全体に一本芯が通ったような一体感が生まれるからだ。
物語に芯が存在すれば、周りをどのように装飾しても全体は維持される。
芯が存在しないことは必ずしも悪いことではないが、その分全体のバランスをとるのが難しくなり、きちんと練り上げなければ破綻してしまうことも多い。
物語を終えたときに「結局どういう話だったんだろう」という曖昧な感想しか残らなかったりもする。

ルンファクのように主人公が男女選べるケースの場合はなかなか難しいとは思うが、男性主人公であればメインヒロイン、女性主人公であればメインヒーロー(?)という風に主人公次第で変化するようになれば良いなと思っている。

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